「セックスはなぜ楽しいか」への違和感

 毎日のようにセックスをし、今日のセックスはとびきりに面白かったな、一昨日のマグロみたいなセックスとは大違いだな。そんなセックスライフとは程遠い、武者修行みたいな生活を送っている私ではありますが、セックスはやはり魅力的なのです。だからなんだか悔しい気もしましたが、セックスはなぜ楽しいか「Why Is Sex Fun?」(日本語題:人間の性はなぜ奇妙に進化したのか)という本をみかけたとき自然と惹かれてしまいました。セックスはなぜ楽しいのか、その答えとなる理由への興味は勿論のこと、そこに加えて私は、この問いにどのように答えれば良いのか、答えだけでない答えへの近づき方にも興味がわきました。

 ただ読んでみると、正直腹が立ったというか、この本は先の疑問に全く答えているように思えませんでした。答えているのだけれど、全く納得できない。けれど論理が間違っているようにも思えない。この違和感は、結局答えに到達出来ていないだとか、論理展開に誤りがあるとは別もので、そもそもの問いが「セックスはなぜ楽しいか」ではなく、「人間はなぜ他の動物とは異なり、隠れてセックスするようになったのか」といったものへと変わっていたことに依るように思えました。私が初めに抱いた疑問と、本の著者の問いとの質がまるで異なっているように思えたのです。(日本語題は改題されていたのですが、私のような人のために変えたのだろうと今になって思わされます。)

 セックスはなぜ楽しいか、という問いは私と著者とで共通しているだろうにも関わらず、何かが違うばかりに、問いの質が全く異なってしまっている。「私にとってセックスはなぜ楽しいか」と「人間はなぜ他の動物とは異なり、隠れてセックスするようになったのか」。この似ているようで似ていない、だけどやっぱり似ている(笑)、2つの問いの質の違いは何であるのかがとにかく気になりました。

 この質の違いは、一人の人間としての私についての内側と外側からの見方の違いに強く基づいていると考えます。「セックスはなぜ楽しいか」は、楽しいという内面の部分に、セックスだけに限らない、楽しいとはどういうことなのかということにまで意識が及んでいるように思います。他方、「人間はなぜ他の動物とは異なり、隠れてセックスするようになったのか」は性行為に関する、進化の自然淘汰の原理は何であるのかを明かそうという意識が強いように思います。進化論ですから、そこでは個体の生まれながらの外的な違いのみが重要で、生まれてから何を経験して何を考えたかといった内面は一切無視して考えるわけです。そうやって内面を空っぽにして考えるわけですから、その前提にたった答えや答えへの近づき方が、内面に興味があった私には全く響かなかったのではないか、そう考えています。

 

 しかしこれで疑問が全く解消したかというとそうではないのです。というのも「人間はなぜ他の動物とは異なり、隠れてセックスするようになったのか」の答えに当たる自然淘汰の原理原則をもって、「セックスはなぜ楽しいか」を答えることもできてしまう、こうした原理原則があるから楽しいと答えることもできてしまうからです。先も述べましたが、両者はそもそもの前提が違います。しかし前提が違えど、これはこれで一つの答えとして成り立っている。にも関わらず、「こうした原理があるから、楽しい」という答えにどうも馴染めない。なんだか狡い気さえしてくる(笑)。内面を空っぽにするか否かの前提の違いをもとに考えることはまだまだありそうです(その一つが以前書いた 反省と因果関係 - sesame )。

 

 

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

 

 以前も同じような記事を書きましたが、頭の整理の為、そしてこの後書きたい記事の準備として、今一度書いてみました。