英語リスニングの苦手克服方法

どうすれば英語リスニングが上達するのか。Googleで「英語 リスニング 勉強法」等と調べ、その方法を試してみるも記事のように能力が向上しないのは何故なのか。才能が足りないからなのか、努力が足りないからなのか。

 

大学受験の頃より英語リスニングは苦手であった。この事が悔しく、勉強はしたものの、その効果は殆ど現れず苦い想いをする日々ばかりが続いた。TOEIC試験のリスニングスコアが多少上がることはあったが、試験をしばらく控えるとスコアは下がり、元のスコアへ戻った。スコアを上げていたものは、リスニング能力ではなく、試験傾向に慣れであったのだ。根本的には何も変化していなかったのだと憂鬱になった。

そして大学を卒業し、企業で仕事をするようになり、そこで短期間ではあるが英語圏で仕事をする機会を得た。幸か不幸か、ネイティブスピーカーの多いチームで働くこととなった。

彼ら彼女らの話す英語は、想像していた以上に、恐ろしい程に聞き取れなかった。Skypeで英会話を習っていた頃には、会話が成立する程度には相手の話すことがわかった。しかし足を踏み込んだ地での英語は別物であった。随所で微かに聞き取れる単語の音から、確かに英語であるという確信は持てたが、本当に英語を話しているのか疑う程に聞き取れなかった。

しかしながら数ヶ月が経ち、帰国を目前とした今、当初と比較すれば明らかに聞き取れる幅は広がった。彼ら彼女らの話していた言葉は確かに英語であった。その証拠に、渋々とではあるが、電話で話をも進めることもできるようにもなった。当初は全くの雑音でしかなかったネイティブ同士も雑談も、いくらか理解出来き、所々会話に参加できるようにもなった。相変わらず、聞き返されることもあれば、相手が何を言ったかよくわからずどっち付かずな返事をしてしまい微妙な空気になることはあるが…。

英語リスニング能力を向上させるために必要なこと

リスニングは、音を聴き取り、その聴き取った音を意味に変換することで成立される。つまりリスニングには、音の聴き取り能力と、意味の理解能力の2つが必要となる。音の聞き取り能力とは、単なる音に対して、単語といった形を与える能力を指す。例えば「どっぐ」という音を聞いたときに「dog」という英語の形を当てはめられる能力である。他方、意味の理解能力とは、形から話者が伝えようとした意味を理解する能力である。「dog」という形から、聞き手である自分が、話者は「犬」と言いたかったのだろうなと理解する能力である。

この数ヶ月間での私のリスニングの上達は、音と意味との意識的な往復により実現されていった。リスニングに喘ぎ苦しむ中で、その元凶は、強いて言えば音であるのか意味であるのかどちらであるのか、その答えがふと意識に到来するまで耐え忍んだ。自分の乗り越えるべき壁が意識に到来した後は、それを克服するための勉強法を探し、取り組む。その繰り返しであった。

記事のタイトルに上達方法と書いたが、一般的でありながら、個人にとっても最適な上達方法はないと考えている。個人的に最適となれば、その個人が一体どれくらいの能力を持っており、何に躓いているのかに強く依存する。一方、一般的とはその個人を抽象化することである。英語を習い始めた中学生の自分と、大学受験を終え英語の基礎能がある大学生の自分とでは、それぞれに合うリスニングの勉強方法は異なる、ということは経験的に言っても理解され得ると思う。

英語リスニング能力を向上させるためにしたこと

では、どう勉強するのが良いのか。

以下、個人的な経験でありながら、ある程度客観性を持つよう、私の勉強過程を書いていく。尚、参考のために、英語圏へ来るほぼ直前の私の英語能力は中高大で「勉強して」TOEIC 800点、R430 L370程度。Skype英会話は数ヶ月経験があるものの、海外居住経験は勿論無し。現在の英語の目標は英検一級合格である。

Step1. 漠然とした聞き取りからの脱出 ディクテーション

周囲の会話に字幕がつけば、理解できるだろうと思うほどにはリーディングに苦手意識はなかった。聞き取れた音を頼りに相手の話す内容を推察することもなんとか出来ていた。

他方、音については、大凡聞き取れているように自然となると思っていた。前述のようにリニスニングには苦手意識があったものの、日々英語を聞き続けていれば次第に慣れ、聞き取れる幅も広がっていくだろうと思っていた。

しかしながら、数ヶ月が経つも、リスニングが上達しているように感じなかった。相変わらず、自分以外に当てられた会話は殆ど全く聞き取れない。聞き取れた音のみを頼りに内容を推察するばかり。

何が阻んでいるのか。聞き取れればわかるはず、慣れれば聞き取れるはず。この考えの盲点は何か。

いや実は、自分が思うほどに、音をまともに聞き取れていないのではないか。慣れていくものは、元より聴き取れていた音に対してのみであり、形にできる音それ自体が増えているわけではないのではないか。もし仮に増えているであれば、自分の中に何かしらの変化を感じてもよいはずである。

つまり音をこれまで以上に拾えるようになる、形にできる音の幅を拡大する必要性があると考えた。元より慣れに頼っていた音の聞き取りの能力向上を、能動的に底上げする必要があると考えた。この考えは以下のリンクにある文章を読むことで更に高まった。音を真剣に聴き取ろうとするための勉強が必要である、ディクテーションの勉強をしようと。

www.listening-plaza.com

 

Step2. 漠然とした意味解釈からの脱出 講義形式リスニング

ディクテーションの勉強を通じ、徐々に音は聞こえるようになってきた。聞こえるようになったというより、何を発しているのか、その音に耳を以前より傾けるようになった。聞き取れる音が広がれば、意味の推察に使える単語の幅も広がり、推察の精度も向上すると考えていた。

しかしながら、意味については、漠然さが残るままで変化を感じなかった。新規に気を配れるようになった音は増えたものの、そのひとつひとつの形となった音は、文全体における単語単位で言えばキーワードとは言えないものであった。一方この頃の私の意味理解のプロセスは、聴き取れたキーワードを中心に相手が伝えようとしている意味を推察するものであった。つまり、このキーワード主義な意味理解において、キーワードとならない単語らが与える文章の形は、意味理解のヒントにならないままで終わっていた。

即ち、聞き取りから意味を理解するまでの間に溝があることが明らかとなり始めた。音から形となったもの、形から意味となるもの、それぞれの間を繋ぐものがキーワードのみで、他の形は溝に落ちていっていた。つまり形を意味に、より自然と変換できるようになる必要性があると考えた。聞き取れれば意味を解釈できると考えていた変換能力を、能動的に底上げする必要があると考えた。ゆっくりで構わない、しかし内容的に、より高度な解釈能力が必要な、講義形式のリスニングの勉強を始めた。

CD付 英検1級 文で覚える単熟語 三訂版 (旺文社英検書)

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Step3. 会話の聞き取りへの歩み 発音学習 

講義形式のリスニング勉強を通じ、徐々に音を意味に変換する能力が高まってきた。相手の会話の内容を、単語からでなく、文の形で理解しようとするようになった。明らかに以前より相手との会話を楽しめるようになった。複数人の会話でもわかるものがでてきた。

しかしながら、音について、度々全くといっていいほど聞き取れないことがあるのは変わりはなかった。意味を汲み取れる会話は広がったにも関わらず、人や場面によって、かなり理解が苦しいことは変わらずあった。

何が阻んでいるのか。以前より会話はわかるようになった、以前より聞き取れるようになった。何が足りていないのか。

音にも意味にもならないもの、そこに何かしらの形を与えるには、やはり音の聞き取りが必要なのではないかと考えた。ディクテーションやこれまでで上げてきた聞き取り能力を、更に能動的に上げる必要があると考えた。ネイティブの教科書のとおりにはいかない音に形を与えるために、発音やアクセントの勉強を始めた。


Learn English Listening Skills - How to understand native English speakers

 

Step4. 会話の理解への歩み 語彙学習

発音の勉強を通じ、聞き取れない音は随分と減っているように感じる。仮に聞き取れない会話がある場合も、それは単純な聞き取り能力だけでなく、音をそもそもしらない単語であったり、やや癖のあるアクセントであることがあると思うようになった。

他方、意味については、聞き取り能力の向上に従い幅は広がっているように感じたももの、限界を感じることも増えてきた。字幕で見ていてもわからないときはわからないのである。

つまり阻んでいるものは、話のネタや文化であり、表現であり、語彙であると考えるようになった。これらを全て埋めようとすると途方もないが、文化的により寄り添うことは勿論、基本的な表現の再確認、語彙の底上げが必要であると考え、今地道に勉強をしている。

uwl.weblio.jp

 

※ 精神現象学を持ってくればと後悔している

 

電王戦で考える人工知能と人間の違い

電王戦というプロの棋士とコンピュータとの将棋の勝負がある。先日、その電王戦でコンピュータ側の反則負けというニュースがあった。反則負けの原因は、人間の指したある奇妙な手へのコンピュータの不対応だそうだ。その奇妙な手とは角の不成、つまり角を裏返せるという権利の放棄である。人間側のその奇妙な手により、コンピュータは自らが王手をかけられているという危機的状況の認識が出来なくなった。その結果、コンピュータは王手を無視してしまうという反則を犯したそうだ。
 
上述のように、コンピュータは予期せぬことに気づくことが出来なかった。それはコンピュータが記述された命令に忠実に従うものであるからだ。つまり先の電王戦の事態は、奇妙な手についての命令がコンピュータのプログラムに記述されていなかったことにより生じたと言える。
 
他方、この勝負がもし人間同士のものであったらどうなっていたか。恐らく、奇妙な手を指された側の人間はまず驚いていたに違いない。ただその後、もしその人がルールを知っているのであれば、王手をかけられていることは認識できたはずだ。コンピュータと同じような反則はまずしないはずである。
 
このようにコンピュータと人間とでは予期せぬことへの反応の仕方が大きく異なるように思う。予期せぬことに対し、コンピュータは気がつけず無視してしまう。その一方で、人間は予期せぬことには驚いてしまう。
 
ところで、この驚く人間をコンピュータで真似ることは容易ではない。この実現には、コンピュータは予期せぬことをも予期しておく必要がある。このことはコンピュータが次の手を指すために考慮しなければならない状況を非常に増やしてしまう問題を引き起こす。つまり次の一手を選ぶまでの計算時間を大きくし過ぎてしまうのである。そのため、電王戦で戦ったコンピュータにはあの奇妙な手についての命令が省かれていたそうだ。
 
つまるところ、コンピュータが難しいことを平然とやってのける人間は最高ということである。
 
※フレーム問題にはやや違和感がある。フレーム問題の例として挙げられている問題は問題設定の観点からの問題とアルゴリズムの観点からの問題との二つがある。それらは質的には異なる問題のはずであるが、それぞれが並列されてしまっていることに奇妙さを感じざるを得ない。後者については解消されつつある。
 
Do you know Denousen? It is a game of Japanese chess between a professional chess player and a computer. The other day, there was news about Denousen that the computer was defeated by a human because it broke the rules. This was because the computer could not support to a strange move by human. The strange move called "Narazu" which indicates that player did not select to turn over the Kaku. And that the computer could not support means it could not notice that it had been checked. Therefore the computer ignored the checkmate and broke the rules.

Today I want to talk about the human and the computer from this news.

According to the news, the computer was not able to notice this unexpected situation. This was because a computer plays in accordance faithfully to described instructions. That is to say, that situation in Denousen was caused by the fact that instructions for the strange move were not described in the computer's program.

On the other hand, if humans had played this game, what would have happened? Perhaps, if you played strange move, it would have surprised your opponent first. But then, if he knows the rules, he would notice the checkmate. He would not have broken the rules that the computer did.

Above this, I think reaction to the unexpected is very different between computers and humans. The computer could not notice the unexpected situation and then ignore it. On the other hand, humans are surprised when shown the unexpected.

By the way, it is not easy for a computer to imitate a surprised human. Because it is necessary to expect the unexpected. This causes a problem for a computer because the number of situations it must consider are increased greatly. That is to say, the calculation time to select next move become very large. Therefore, I hear instructions about strange moves have been omitted from the computer.

In the end, human beings cam do some things casually that are difficult for computers.

I would like to finish my speech here today. Thank you for listening to me.

人工知能と人間は本当に違うのか

かつて1人部屋で物思いに耽っていたとき、これまでの自分を覆してしまうような恐怖に襲われた。自分の吐き出す言葉は、実は全て誰かの受け売りではないか。自分らしさと思っていた自分の考えは、実は全て誰かの考えを真似ているだけなのではないか。自分が自分と思っていた自分は本当のところおらず、私は社会の操り人形、言葉を操る機械となんら変わりは無いではないか、と。
 
他方、科学の急速な進歩により発達した機械が着実に私達に近づいてきている。我々に近づく機械は我々の仕事を奪い始めている。これまでは使われるだけの道具でしかなかった機械は、今や明快な目的のもとでの単純な作業については文句を言わず壊れるまで働くようになった。そうして機械は、使われるだけの人間の仕事の代わりとなり始めている。
 
私が機械に、機械が人間(私)にへと互いに近づき始めている。はたして私は機械と本当に違わないと言えるのだろうか。私は機械と同じなのだろうか。こうした恐怖が私を強く蝕むようになった。
 
この恐怖に対抗するとなれば機械に侵食されることのない私を私自身で私自身の中から見つけ出さなければならない。それこそが自らの矜持を取り戻すことに、仕事の全てを機械に奪われないようにすることに必ず活きてくる。この思いが、機械と人間について考えさせる動機となった。
 
機械と人間との違いについてしばしば言われることは、機械には創造的な活動はできないということである。だがしかし、この頃は人工知能流行りであるように、機械も学習すること己を制御することが出来てしまう。であるとすると、機械にも創造することは出来るのではないか。またもし機械が出来ないとするならば、その創造的な活動とは一体何であるのか。そして何故それが機械には出来ないのか。
 
機械は自らが有する変数とその変数の重み(パラメーター)により己を制御している。変数とは取り込む情報を、変数の重みはアウトプットに対してのその変数の重要度を表している。そしてその重みはインプットとアウトプットの繰り返しにより学習されていく。
 
いま機械をこのように捉えると、機械は新たな変数を自ら加えることが出来ないことに気づく。機械は知らないことは、全く知らない。だからこそ機械は知らないことが無いように、膨大なデータベースを持って事柄に対応しようとしているのだろう。とするとやはり新たに取り込む情報としての変数を見つけ出すことは、機械には出来ないことなのだろうか。では、この見つけるという行為はどのような行為なのか。
 
見つけるという行為は他の多くの行為と異なり、運動の始まりと終わりが一致していると考えられる。つまり見つけ始めたときには既に見つけ終わっていると。
 
では、この性質は機械にその行為を難しくさせることとどのように結びつくか。始まりと終わりとが一致することが、その行為や運動を機械的なハウトゥーとして捉えることをなぜ困難なものとするのか。
 
この困難性は行為を因果関係的なモデルで説明出来ないことに基づくと考える。結果に原因をもって説明するのが因果関係であり、それは時間の関係である。しかし見つけ出すという運動は、終わり(結果)が始まり(原因)と同時間にある。同時間にあることにより、因果といった時間的な差異に基づく説明ができない。思うにこれが因果関係では説明出来ない理由ではないか。
 
ただこの見つける(問題の発見)という行為は機械に可能でないとしても我々人間にとっても大変に難しいことである。この行為を単純に方法的に捉えることが出来ないとしても、何故違いが生まれるのか、我々の見るという行為と機械の見る行為とは一体どのように違っているのか。この把握が少なからず我々をより人間らしくするように思う。では、はたして我々は機械と同じように変数とその変数の重みで世界を見ているのだろうか。

人を殺してはならない理由はあるのか

殺していけない理由は無い。そして同様に、殺して良い理由もあるはずが無い。と思っていた。

 

罰則はあくまで個人にとって、相対的な価値の問題でしかない。余程の精神状態で無い限り、自らが行おうとする行為とそれに伴う罰則と考慮に入れるはずである。選択の意思はそこにあるはずであり、罰則はその基となっているはずである。

「殺されたくないのだから、殺してはならない」も、やはり相対的な価値の問題でしかない。殺すことは一つの世界を消失させることである以上、「やって欲しくないことは、やってはならない」より遙かに重い。ただそれでも、この理由では殺される覚悟のあるものを止めることは出来ない。

私達は少なからず殺しを個人の損得判断のもとで選択している。私は人こそ殺したことは無いが、蚊は殺めたことはある。しかしこのとき、蚊は殺してよく、人は殺してはならない理由があるようには思わない。この差別性は、やはりどうしても蚊を殺すことで罰を受けないことに大きく基いていると疑わざるを得ない。

 

では、人が人を殺す殺さない理由は、そうした個人の価値によるものだけなのだろうか。罰則を恐れて人を殺さないのだろうか。殺されたくないから殺さないだけなのか。殺すことが常に念頭にありながらも、それをなんとか己の理性により抑えているのだけなのだろうか。

 

いや、そうでは無いだろう。私達は普段、殺さない理由を探し殺さずにいるのではなく、殺したくないから殺さないことを選び続けているのではないか。

人は、生きているもので愛することができるもののみを殺すことができる。殺され殺し得るものだけを愛することが出来る。そうした人間の愛は、動物の単なる弱肉強食に基づくものとは違う、より自由な愛である。目の前にいる憎いものも、愛し得る(愛し得た)存在に変わりはない。

愛しているものを無碍に殺そうとはしないだろう。殺してはいけない理由は無いと言ったが、もし殺してはいけない理由があるとすれば、それは愛に結びつくと思う。

 

二年前くらいに書いたメモをちょこっと直して転載

失敗と成功との違い

悪い結果の原因を分析したとしても、成功には繋がらないと思う。繋がるとすれば、悪い結果と良い結果とが表裏一体の関係のときであり、すなわち失敗しないことが成功でなければならない。

同様に、悪い結果の原因を分析し続けることは、結論の強化でしかないと思う。人間、やはりどうしても環境に強く依存してしまうもので、そして自己防衛的にも外に原因を見出しやすい。悪い結果を受け入れるために、外に原因を求め、自分のせいではないと言い聞かせてしまうことは多い。

 

上記の考えは、原因は結果があってこそ見えるもので、結局、結果の後付の設定でしかないというものに由来する。確かに原因分析によって、いくらか時間を遡行することはできる以上、全ての原因分析が結果論で無意味なものであるとは思わない。ただそのように遡行して得られた「あるとき」は、もともとの「あるとき」よりずっと小さいのは間違いは無い。

もともとの「あるとき」は、今の結果から見えるよりもずっと豊かな、別の結果を導く可能性を持っているはずである。今、残念ながら私は、世の中は決定論だという考えを打ち砕く程の学は持ち合わせていない。ただ、在るということは、それを説明するどのような情報よりも豊かなものだと信じている。

 

だから、もし思うような結果を得ることが出来なかったのだとすれば、なぜその方に曲げることができなかったのかを考えることが重要であると思う。それは一人の「私」について言えば、基本的なインプットは変えられない以上、アウトプットの質を変えようとすること。結論を受け入れるために考えるのでなく、結論に抵抗する為に考えること、に該当する。

そうした環境や属性(生まれ、学歴、職業)のみに依存しない自分をいかに形成していくか。環境というのは、自分の思うように簡単に変えられるものではない。だからこそ、基本的なインプットは変わらない中で、アウトプットの質を変えていくことが大事となる。そのための一つの方策が、インプットに対するアウトプットの繋がりが弱い(弱いつながり)、ノイズを「私」に蓄えるための旅なのだろうと読んだ。

 

弱いつながり 検索ワードを探す旅

弱いつながり 検索ワードを探す旅

 

 

どうせ忘れる資格の勉強は無駄か

 今日、資格試験を受けてきた。TOEICを除くと、3年前に取得した運転免許試験以来な気がする。

 

 資格試験(職に直結する場合は除く)についてよく思うことは、合格のための知識を一時的に蓄えて何になるのか、ということ。試験から一ヶ月も経てば、すっかりと抜け落ちてしまう知識を詰め込むことにどれだけの意味があるのか。調べさえすればわかる知識を一時的に記憶することにどれほどの意味があるのか、と。

 一つの分野の専門を持つということについて私は、その分野についての膨大な情報を適切なふるいにかけることができるということでもあると思っている。隅から隅までその分野のことを知っているということでなく、知らないこと新しいことに対してそれが胡散臭いか尤もらしいかを上手く嗅ぎ分けることが出来るということ。

 その嗅ぎ分けによる正否の判断は、自らが持ち合わせている知識や経験と照らし合わせて矛盾がないか逐一探索することにより行われているのではなく、殆ど直感とも言える判断によって行われているように思う。上司でも先輩でも、凄いなと思う方は私が困り相談した内容について詳細を知らずとも瞬時に真っ当な判断出来てしまう。そうなったとき私に残される課題の殆どは、その実際の確認と根拠の築き上げとなるわけだ(笑)。

 そういうわけで、資格試験の勉強でただの知識以外に何かを得ようとするのなら、問題と答えとを一対一で覚えること、問題に対して詰め込んだ知識からひたすらに探索するように答えることは避けたほうが良いと考える。勿論、始めは仕方がない。しかしそれら答え方は、知識がないときの情報の取捨選択の仕方から非常に遠いことを忘れてはならない。あれこれ考えずにして「なんとなくこれが答えな気がする。」そうした知識にべったりと貼りつかない勘を少しでも働かせることができるようになるまで勉強するのが良いと思っている。

 

 

知ると出来るとの違い

知ることと出来ることは違うとは言うが、何がそうさせているのだろうか。

 

知ることが出来ることで無くてはならないものにマニュアルがある。例えばファーストフード店でのキッチンでは、従業員はとにかくマニュアル通りに動くことが求められる。あいつはマニュアル通りで融通が効かないやつだ、というのはなかなか意味不明で、マニュアル通り動くことで、お店がまわるのがマニュアルだろう。

では、知ることは出来ることなのか。いや、誰もが違うというだろう。

けれど、いわゆるノウハウ本というのは、知ることを出来ることだとみなしているものと言えないか。WordやExcelの作成技術からロジカル・シンキングまで、様々なノウハウ本が巷には溢れている。そうした本を読み、本から離れたところでそのノウハウを試してみたときに出来るようになるか。いやそれは別にしても、そのような本の多くにはあたかも出来るようなりそうなことが書かれていないだろうか。

知ることと出来ることは違うと気づいているのに、またマニュアルを馬鹿にする人がいるのに、どうしてノウハウ本に惹かれてしまうのか。

ノウハウをかき集めておこうというのは、様々な知識や対処法を内部に溜め込んでおくことで、自らを強化しようという心理があると思う。確かに、必要な知識がなければWordやExcelなどは使えるものではないので、ノウハウを知り蓄えておくことは有用であろう。必要な勉強というのはこういうものであると思う。しかしそうしていながらも、なかなかうまく行くかない、行くような気がしてこないのだとすれば、それはノウハウとは別のものが蓄積されていないからではないだろうか。

 

やり方が来る前に、まず目の前のものへの認識があり、それに基づいてやり方が展開されるように思う。だからやり方は少なくとも認識とセットであり、認識なくして、やり方は無用なもの。もし経験的に優れているように思わせるものがあるのだとすれば、それはノウハウ的な対処を知っていることの他に、目の前のことがどのような意味を持ちえるかという認識から来るものでもあるだろう。ここでいう認識とは、見"方"(=how)とは違う、目の前に見えている対象が何であるのか、というその人が見る風景そのもののことを指している。

だからノウハウをかき集めたとしても、なかなかうまく行かないのだとすれば、それは認識が育っていないからでは無いだろうか。

 

「教科書を読むように前から順番に論文を丁寧に読むだけでは、なんだか血や肉になっている気がしないな」と思っていたことを思い出しながら書いた。