反省するとはどういうことか

進化論的な説明(「なぜ人間の性はこんなにも奇妙に進化したのか」など)に違和感を覚えて以来、「因果」という言葉にやや敏感になった。統計(データ解析)で耳にする「相関関係は因果関係では無い」というものも、以前はそりゃそうだとぐらいにしか思っていなかった。わざわざそのようなことを主張する意義まで探ろうとはしなかった。

他方で、近々、学会発表をする予定がある。内容は随分と粗末というか新規性・有効性が低いもので、どうしてこうなってしまったのかと頭を抱えながら最後の準備を進めている。どうしてこうなってしまったのかと思い巡らすとき、ああ、これも一つの因果関係の分析のようなものだろうなと気づいた。

しかし、進化論的な説明(人や動物のモデル化する説明?)への違和感は、自分の行動について振り返ることを因果関係の分析の一つと捉え終えてしまうを許しはしなかった。反省をすることを自分の行動における因果関係を捉えることとしてしまうことに違和感を覚えざるを得なかった。(ところで、このような書き方をすると、始めに結論ありきのように思われるかもしれない。全くを否定することは出来ないが、そもそも決して早急に結論を出そうと焦っているわけで無く、また最終的に境目は明らかに出来ていないことは一言断っておきたい。)

 

科学において、こうした原因がこうした結果を招いたのだと、結果から原因を分析することは欠かせない。その結果として、例えば、水(液体)は冷やすと氷(固体)になるといった因果関係が得られている。更には、この自然の因果関係を捉え利用していくこの思考の枠組みにより、科学は進歩し、生活は便利になった。

では人間、とりわけ自分自身においては因果関係はどのような形で現れているか。例えば、こうした原因がこうした結果を招いたのだという分析の一例として「勉強しなかったから試験に落ちた」がある。試験に落ちた原因は、勉強不足である。もし、このような原因分析の結果を聞かされたとすると、おそらく大抵の人は気持ちが冷めるような、原因としての物足りなさを感じる。では、何が物足りないのか。

まず、そもそも「試験に落ちる=勉強不足」ということもあり得る。つまり、単なる結果論(ここでは、原因が結果の言い換えという意味)でしかなく、原因が原因になっていない。とすれば、違和感を感じるのは当然であろう。

ただ、ひょっとすると、本当に勉強不足であったかもしれない。すると先の結果論という指摘は的を射ておらず、他に問題があることとなる。全く勉強しなかったから、試験に落ちた。・・・・あまりにも当たり前である。

しかし、この「あまりにも当たり前」というものが、人間の行動を因果的に捉えてしまうことの問題の現れであるようにも思える。自分自身(人間)の行動を因果的に捉えてしまうと何かどこかで不都合が生じているように思える。

結果(良いにせよ悪いにせよ)から、かつての行動を振り返ること(そして、やり方を変える)。これを反省と呼ぶと思うが、これは科学における「こうした原因がこうした結果を招いたのだと」という因果の分析に似ている。だがしかし、人間において因果の当てはめによる分析はどことなく奇妙さが残してしまうこととなっていた。それはなぜか。

思うにそれは、人間が因果を断ち切れる存在、因果に抗うことが出来る存在だからでは無いか。私達人間は、動物(や物)と異なり、己の欲求のみに支配されず己を律することが出来る。己の欲望のままに、条件反射的に行動するわけではないであろう。(ただ、その律しようとする意識も無意識から生じているようにも思えるので、簡単に動物と人間とを分けることが出来ないのだが、とりあえずここで妥協しておく。)

人間を仮に、因果を断ち切れる存在と考える。もしかすると突拍子もないように思われるかもしれない。しかしこの考えによって、人間の行動を因果的に捉えてしまうことに奇妙さを感じてしまう理由が少し見え始めるものがある。

因果には時間の流れがある。そして、その時間(科学的な時間)はいつまでもまっすぐである。だから、だから、だから、の連続である。ある結果からその原因を振り返る、時間を遡行していくことで、結果を導いた原因はある程度は明らかになる。その一部明らかとなった因果の関係は「だから」の関係であり、その「だから」の繰り返しがまっすぐな時間を作り上げていく。そのまっすぐな時間軸に沿うことで、私達は「予測」をするようになる。

こうした因果に基づいて、人間の行動を因果的に捉えること。それは、行動(行動をしないことも含め)を欲望に支配された条件反射的な関数(モデル)として捉えることであると考えている。要するに単純というものだ。怒られるから勉強するのは単純。世俗的なのも単純であろう。

全く勉強しなかったから、試験に落ちた。だが、勉強することだってできたはずだ。なぜ勉強しなかったのか。したくなかったから。面白くなかったから。あまりに欲望に支配されている!また、するとそもそもなぜ試験を受けたのか。恐らく、受けろと言われたからではないか(そうしないと怒られそう)。言われた通りとは、なんと単純、条件反射的か!

他方で、人間を因果を断ち切れる存在、因果に抗うことが出来る存在と表現した。そして因果の時間はまっすぐな時間であるとも言った。つまり、そのまっすぐな時間の流れを曲げられる存在として人間があるように考えている。そう、人間は潜在的に時間を曲げることができるパワーを持ち得ている。他人が思いもよらなかった方向に事を運ぶことが出来る。だから、そのパワーを一切発揮すること無く、ただただ欲求に従い、まっすぐな時間に沿う存在でしかないという認識と同時に、違和感を感じるのではないか。(また、時間の曲がった先にありそうなもの、それがふと感じ取れると「予感」というのではないか。またなにより、ここら辺でそもそも時間とは何か、という疑問も自然にわき始めるが無理なので保留しておく。)

だがしかし、時間を曲げることは難しく、また大変な力が必要だ。何より単純の難しさは、何が単純であるかが全く自明でないところであり、だからこそ自分の時間がまっすぐになっていることも認知し難いところにある。だから反省は難しく、そして因果の重力に抗い行動することは尚一層に難しい。

 

 

哲学入門以前

哲学入門以前

 

 

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

 

 

 

私もまるで殆ど出来ておらず、情けなく泣きたいときがある。ただそれでも、以前と比較すればいくらか前進したところも有る。そこで、どのような類いの因果の重力に引っ張られ続けていたことに気づいたかを整理する過程で、まだ認識出来ていない重力をどうすれば認識できるようになるか、そうした事柄について考えていきたい。