知ると出来るとの違い

知ることと出来ることは違うとは言うが、何がそうさせているのだろうか。

 

知ることが出来ることで無くてはならないものにマニュアルがある。例えばファーストフード店でのキッチンでは、従業員はとにかくマニュアル通りに動くことが求められる。あいつはマニュアル通りで融通が効かないやつだ、というのはなかなか意味不明で、マニュアル通り動くことで、お店がまわるのがマニュアルだろう。

では、知ることは出来ることなのか。いや、誰もが違うというだろう。

けれど、いわゆるノウハウ本というのは、知ることを出来ることだとみなしているものと言えないか。WordやExcelの作成技術からロジカル・シンキングまで、様々なノウハウ本が巷には溢れている。そうした本を読み、本から離れたところでそのノウハウを試してみたときに出来るようになるか。いやそれは別にしても、そのような本の多くにはあたかも出来るようなりそうなことが書かれていないだろうか。

知ることと出来ることは違うと気づいているのに、またマニュアルを馬鹿にする人がいるのに、どうしてノウハウ本に惹かれてしまうのか。

ノウハウをかき集めておこうというのは、様々な知識や対処法を内部に溜め込んでおくことで、自らを強化しようという心理があると思う。確かに、必要な知識がなければWordやExcelなどは使えるものではないので、ノウハウを知り蓄えておくことは有用であろう。必要な勉強というのはこういうものであると思う。しかしそうしていながらも、なかなかうまく行くかない、行くような気がしてこないのだとすれば、それはノウハウとは別のものが蓄積されていないからではないだろうか。

 

やり方が来る前に、まず目の前のものへの認識があり、それに基づいてやり方が展開されるように思う。だからやり方は少なくとも認識とセットであり、認識なくして、やり方は無用なもの。もし経験的に優れているように思わせるものがあるのだとすれば、それはノウハウ的な対処を知っていることの他に、目の前のことがどのような意味を持ちえるかという認識から来るものでもあるだろう。ここでいう認識とは、見"方"(=how)とは違う、目の前に見えている対象が何であるのか、というその人が見る風景そのもののことを指している。

だからノウハウをかき集めたとしても、なかなかうまく行かないのだとすれば、それは認識が育っていないからでは無いだろうか。

 

「教科書を読むように前から順番に論文を丁寧に読むだけでは、なんだか血や肉になっている気がしないな」と思っていたことを思い出しながら書いた。