人工知能と人間は本当に違うのか

かつて1人部屋で物思いに耽っていたとき、これまでの自分を覆してしまうような恐怖に襲われた。自分の吐き出す言葉は、実は全て誰かの受け売りではないか。自分らしさと思っていた自分の考えは、実は全て誰かの考えを真似ているだけなのではないか。自分が自分と思っていた自分は本当のところおらず、私は社会の操り人形、言葉を操る機械となんら変わりは無いではないか、と。
 
他方、科学の急速な進歩により発達した機械が着実に私達に近づいてきている。我々に近づく機械は我々の仕事を奪い始めている。これまでは使われるだけの道具でしかなかった機械は、今や明快な目的のもとでの単純な作業については文句を言わず壊れるまで働くようになった。そうして機械は、使われるだけの人間の仕事の代わりとなり始めている。
 
私が機械に、機械が人間(私)にへと互いに近づき始めている。はたして私は機械と本当に違わないと言えるのだろうか。私は機械と同じなのだろうか。こうした恐怖が私を強く蝕むようになった。
 
この恐怖に対抗するとなれば機械に侵食されることのない私を私自身で私自身の中から見つけ出さなければならない。それこそが自らの矜持を取り戻すことに、仕事の全てを機械に奪われないようにすることに必ず活きてくる。この思いが、機械と人間について考えさせる動機となった。
 
機械と人間との違いについてしばしば言われることは、機械には創造的な活動はできないということである。だがしかし、この頃は人工知能流行りであるように、機械も学習すること己を制御することが出来てしまう。であるとすると、機械にも創造することは出来るのではないか。またもし機械が出来ないとするならば、その創造的な活動とは一体何であるのか。そして何故それが機械には出来ないのか。
 
機械は自らが有する変数とその変数の重み(パラメーター)により己を制御している。変数とは取り込む情報を、変数の重みはアウトプットに対してのその変数の重要度を表している。そしてその重みはインプットとアウトプットの繰り返しにより学習されていく。
 
いま機械をこのように捉えると、機械は新たな変数を自ら加えることが出来ないことに気づく。機械は知らないことは、全く知らない。だからこそ機械は知らないことが無いように、膨大なデータベースを持って事柄に対応しようとしているのだろう。とするとやはり新たに取り込む情報としての変数を見つけ出すことは、機械には出来ないことなのだろうか。では、この見つけるという行為はどのような行為なのか。
 
見つけるという行為は他の多くの行為と異なり、運動の始まりと終わりが一致していると考えられる。つまり見つけ始めたときには既に見つけ終わっていると。
 
では、この性質は機械にその行為を難しくさせることとどのように結びつくか。始まりと終わりとが一致することが、その行為や運動を機械的なハウトゥーとして捉えることをなぜ困難なものとするのか。
 
この困難性は行為を因果関係的なモデルで説明出来ないことに基づくと考える。結果に原因をもって説明するのが因果関係であり、それは時間の関係である。しかし見つけ出すという運動は、終わり(結果)が始まり(原因)と同時間にある。同時間にあることにより、因果といった時間的な差異に基づく説明ができない。思うにこれが因果関係では説明出来ない理由ではないか。
 
ただこの見つける(問題の発見)という行為は機械に可能でないとしても我々人間にとっても大変に難しいことである。この行為を単純に方法的に捉えることが出来ないとしても、何故違いが生まれるのか、我々の見るという行為と機械の見る行為とは一体どのように違っているのか。この把握が少なからず我々をより人間らしくするように思う。では、はたして我々は機械と同じように変数とその変数の重みで世界を見ているのだろうか。