人を殺してはならない理由はあるのか

殺していけない理由は無い。そして同様に、殺して良い理由もあるはずが無い。と思っていた。

 

罰則はあくまで個人にとって、相対的な価値の問題でしかない。余程の精神状態で無い限り、自らが行おうとする行為とそれに伴う罰則と考慮に入れるはずである。選択の意思はそこにあるはずであり、罰則はその基となっているはずである。

「殺されたくないのだから、殺してはならない」も、やはり相対的な価値の問題でしかない。殺すことは一つの世界を消失させることである以上、「やって欲しくないことは、やってはならない」より遙かに重い。ただそれでも、この理由では殺される覚悟のあるものを止めることは出来ない。

私達は少なからず殺しを個人の損得判断のもとで選択している。私は人こそ殺したことは無いが、蚊は殺めたことはある。しかしこのとき、蚊は殺してよく、人は殺してはならない理由があるようには思わない。この差別性は、やはりどうしても蚊を殺すことで罰を受けないことに大きく基いていると疑わざるを得ない。

 

では、人が人を殺す殺さない理由は、そうした個人の価値によるものだけなのだろうか。罰則を恐れて人を殺さないのだろうか。殺されたくないから殺さないだけなのか。殺すことが常に念頭にありながらも、それをなんとか己の理性により抑えているのだけなのだろうか。

 

いや、そうでは無いだろう。私達は普段、殺さない理由を探し殺さずにいるのではなく、殺したくないから殺さないことを選び続けているのではないか。

人は、生きているもので愛することができるもののみを殺すことができる。殺され殺し得るものだけを愛することが出来る。そうした人間の愛は、動物の単なる弱肉強食に基づくものとは違う、より自由な愛である。目の前にいる憎いものも、愛し得る(愛し得た)存在に変わりはない。

愛しているものを無碍に殺そうとはしないだろう。殺してはいけない理由は無いと言ったが、もし殺してはいけない理由があるとすれば、それは愛に結びつくと思う。

 

二年前くらいに書いたメモをちょこっと直して転載