原因を考える

結果を得たとき、とりわけ悪い結果得てしまったとき、こうなった原因は何であろうかと考える。時間を遡り、あのときのあれがいけなかったのかなんて思いながら、原因を探していく。そうしてようやく見つけた原因をもとに、次はこのような馬鹿なことはしないよう気をつけるぞと心に留めて、次に行ってしまうことはある。が、これは良くない。

 

良くないと考えるわけは、原因は結果が無ければ生まれないからだ。結果が得られたとき、ようやくその原因が現れるようになる。けれど、まだ結果がわからない今ここに原因があるかと言えば無いだろう。原因になりそうなものはあるだろうが、原因それ自体は無いだろう。

原因になりそうなものを原因にしない為に気をつけるのが先の「気をつけよう」というもので、だから別にそれで構わないではないかと思うかもしれない。けれど、これから起こりえることは時間が離れれば離れるほど無限に膨れ上がる。するとこれから起こりえることの原因となりえそうなもの全てに気をつけなければならない。これでもかという程の気をつけることを書き連ねたリストをチェックしなければならないことになる。

システム開発なんかでは、そうした膨大なチェックリストをもとに起こってはならないことに気をつけながらやりくりしているのかもしれない。起こってはならないことを防ぐためにチェックリストで管理している。だから別に僕たちもそれで良いのではないかと思うかもしれない。けれど、僕たちは本当にシステムと同じで良いのだろうか。チェックリストを眺めながら行動するのが僕たち人間だったのか。

また今ここに原因がないのだから、強引な言い方ではあるが、原因は後からでっち上げたものだとも考えられる。だから再現性がなんだと言ったとしても、原因という概念が思われているほど確固たるものでも無いのだから、とにかく期待されている結果が起こってくれなければその原因が現れてこないのだから、再現性がなんだと気軽には言えるものではないと思う。

 

今ここに原因は無い。結果を予測して原因もどきをつくり上げ、考えることも必要だと思うが、今は今ここにしか無いのだから、その今をきちんと自分の目で見れることが重要だと思う。そうした見方を養うことは、チェックリストをつくったり見たりすることとは違うと思う。