「論文の書き方」を読んで

 

論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

 

 

文章を書いているとき、はたしてこれはただ書くことと何か違うのか思うことがある。書を読み考えたことをブログに書いている、そのときもだ。一方、大学の研究室で指導を受けながら数理の論文(予稿集)を書いていたときは、ただ書くこととは違うように思えた。そこでは構造のみならず一字一句に明確な意味を込めようとしていた。しかし今ここには校正してくれる人はおらず、字数の制限さえも無い。そうした場において、如何にして一字一句を大切にし、書くことが出来ようか。

文章を書こうとするとき、普通、何かしらの題材を取り上げる。そしてその題材が実物であれ抽象的なものであれ、それについて思うところを書いていく。すなわち「文章は認識である」(p56)。書いた文章が弱々しく、一字一句が明確な意味を持つことが出来ていないのだとすれば、それは対象への認識が甘いからだ。しかし、ただ自由に題材を取り上げ、自由に書くことの繰り返しでは、なかなか対象の奥深くに突き進むことは出来るようにならない。それは認識を隔てている壁に気付けていない、その壁を壊し方がわからないからだ。そこでその壁を壊すための文章の修行として清水氏は、堅い書物を相手として立て、その書評なりの内容を短文で書くことを薦めている。

相手として立てた書物を読むとき、そこでは自分を殺し読んでみる。文章とは認識である。すると書の文章を辿ることで、自らの目をその著者が認識していた対象へと向けていくことが出来よう。文章を通し、自らを対象の奥深くへと突き進ませることが出来よう。このとき忘れてはならないことは、読むことは著者が言わんとすることを掴むことが目的であり、批判が目的でないことだ。だから初めのうちは自分と思想があまり遠すぎない、自分を押し殺せる著者を選んだほうが良い。

こうした読みを踏まえ、次は自分を生かして文章を書いていく。書物について、どうしても自分が出ざるを得ない字数制限(1000字など)の中で曖昧な表現へ逃げずに書いていく。書の文章により対象を見つめ、書くことで対象を自らの認識として捉え直す。これにより書の著者の思想を自らの思想へ融け込まし、文体の改善を行っていく。思想とは「経験を処理し組織する方法であり、また、処理され組織された経験」(p36)であり、その思想の改善は文体の改善であるそうだ。

以上、読みと書きの相互作用による文章の書き方の向上法を説く、実践的な書であった。

 

 

というわけで書いてみましたが、これを書くだけでも大変でした。修行が必要ですね。また堅い書の場合、一冊について書くほどの力量は到底持ちあわせていないので、断片を拾い書いていくしかないかなと。いや、それも相当に大変だろうけれど。