因果関係は論理的なのか

原因と結果について述べるとき、「ならば」を用いることがある。この「ならば」を普段は論理概念として捉えているが(少なくとも私はそうであった)、少し立ち止まり「ならば」について考えてみると、本当にそれで良いのかと思えるところがある。

 

論理概念としての「ならば」のことを思えば、恐らく大抵は数学を思い浮かべるだろう。「p"ならば"q」というものだ。この論理概念としての「ならば」が持っている性質として、命題が真であれば、その命題の対偶も真であるというものがある。つまり「p"ならば"q」が正しいとき、「qでない"ならば"pでない」も正しいというものである。ここで私は、決してこの論理の妥当性について疑っているのではない。この箇所については正しいと思っている。

他方、因果について。例えば「突風が吹き、スカートがめくれる」を挙げるが、これを先の「p"ならば"q」の形式で表せば、「突風が吹く"ならば"スカートがめくれる」となる。これが常に真になるとは流石に思わないが、とりあえずAさんについては言えたとする。するとこのとき、真となるはずの対偶「スカートがめくれない"ならば"突風は吹かない」はどうか。「スカートがめくれないと、突風が吹かない」とは、明らかに変である。

 

因果の「ならば」を論理概念として扱うと、何がこじれてしまうのか。それは因果の「ならば」が持つ、前後関係であろう。因果関係であるのだから、当然のことを言っているだけに思えるかもしれない。ただ私にとってここが、因果の「ならば」が論理概念では無いと考える一番の理由にあたる。因果の「ならば」は「論理」ではなく「時間」なのであろう。つまり、因果関係はもともと論理的では無い、と言えやしないか。

また、するとそもそも「原因」という概念自体が無く、世の中には結果しか無いと考えたほうが良いように思える。というのも、時間の流れの中で認識した「現象」を恣意的に、原因や結果と呼んでいるに過ぎないのだから。そして、私達が原因について考察するとき、それは論理的に考えているのではなく、時間が生んだストーリーを思い描いているだけなのだろう。

 

勿論、原因という概念を用いることは実証を要する科学(工学や社会科学など)には必要である。

 

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

「時間」を哲学する (講談社現代新書)

「時間」を哲学する (講談社現代新書)

頭がよくなる論理パズル

頭がよくなる論理パズル