「やりたいことがわからない」について

自分が本当にやりたいことは何なのか?本当にやりたいことがわからないままで、どのように仕事を選べば良いのか?

 

日常的にやりたいことはある。けれど、いざ何が本当にやりたいのかを問いだすと途端に答えられなくなってしまう。人生を通じて何をやり遂げたいのか。それは次第に生きている意味へ。自分の為だけで無い、誰かの為になる行為について思い始めれば、善いことへ。

このような様子で、就職活動中には先の問いに随分と悩まされた。そもそも直感的にではあるが、今の自分の内に本当にやりたいことがあるとは思えない。「本当にやりたいことが今わからないのなら、自己分析しようが結局わからないままだよ」とも聞く。ならば無いなら無いで良しとして、また多くの周りも同じようなものだろうと自分に言い聞かせ、周囲の流れに身を任せようかとも思った。

就活系の本に書いてあるような問いを使って自己分析をしてみたことがある。ただそのとき、書かれている問いの「ここに書く君の答えが君のやりたいことだ」とでも言いたげな様子がどうも気に食わなかった。渋々と欄を埋めてみるも、そこに自分が書きだす自分がとても自分であるようにはやはり思えない。洗脳的なようにさえ感じられた。

企業のことを調べ、先輩社員の話を聞き、興味が持てるその企業らしい仕事を見つけ出す。そしてその仕事に興味を持てた理由、過去の体験を自分に問う。そうすれば、この悩みは気にかけ無くとも良いかもしれない。けれど、20年以上生きてきた今だからこそ向き合える自分もいるだろう。就職活動の為でなく、少しでも自分で自分を納得させたい。容易に「自分は◯◯だ」などと自分にレッテルを貼りたくは無い。そう思い、もう少し自分に向き合うことにした。

 (以下には、自分のやりたいこと・好きなこと・得意なことがわからなくなっていった私が一体何をこれまでの自分の核として就職活動を行ったか、及びその核に至までの思考の経緯を記した。)

 

とにかく、やりたいことが社会貢献という結論は浅はかだと感じていた。確かに今の自分は自分一人の力で形成されたものでなく、周囲の助けがあってこそのもの。そしてこのことに感謝し、自らも誰かの為、人の為になることが出来ればとも思う。勿論、感謝をされれば嬉しい。ただ働くという行為自体が社会貢献である以上、それが例え後付けの理由であろうとも、自分の行為を社会貢献としていくらでも捉えることは可能である。だからこそ、やりたいことを社会貢献の一言で終わらせたくはなかった。

ならばどのようにしてやりたいことを自分の内から探せば良いのか。今、自分が自分の内からやりたいことを探しだそうとしている以上、それが一体自分にとってどのような位置付けにある行為であるかを捉えたい。というのも、やりたいことはやりたいこと、では思考が先へ進まないからだ。この、やりたいことという言葉は一体どのような意図で用いていたか。

やりたいこととは、好きなこと(≒やりがいのあること)の少し先にあることか。好きだからやりたいのであり、やりたいから好きなのではない。また、好きなことは現在の自分を想定している行為で、やりたいことはほんの少し先の自分を想定した行為のようにも思える。それ故に、今の自分が好きなこと、それが自分のやりたいことを生み出す土台と言えないか。

好きなことはある。ただ、それがどうしようもなく好きなのことであるか、そう自分に問うと根拠それ自体が薄弱(捉えきれない)故に、不安は残る。また普段、その行為が好きであると意識に上がっていなかったようなことを簡単な自己分析を通して、好きなことと安易に結論付けてしまって良いのか。そう結論付けるにしても、その前に少なくとも、好きなことを好きでいる為には何が欠かせないのかは認識しておきたい。そう易々と好きで無くなってしまうわけにもいかないからだ。またそして、好きなことを生み得るものがあるとすればそれはどのようなものか。

好きなことを好きでいる為には、その行為が今の自分に不利益を超える利益(楽しみ・喜び含め)をもたらし得る、そう自ずと期待出来ることが欠かせないはずだ。そして、行為の見返りの可能性が依る処は、常にでは無いにせよ、周囲を比較したときの自分の優位性が重要な要素であろう。周囲と比較して明らかに能力面で劣っていることをし、しかもそこに優位性獲得の可能性を期待出来ない無い場合、その行為を為せるようには思えない。

そうして、好きなことを好きでいさせる為に重要な要素、得意なことに思考の対象が移る。けれど結局、この得意なことは周囲との相対的位置によってしか決まらない。働き始めれば当然、周囲は今までとは違う、突如として厳しい環境へと変わる。このことを考えるに、今の得意なことがこれからも得意なことであり続けるようには思えない。寧ろ一旦埋もれてしまうものだろう。そしてまた同様に、今の得意なことに支えられている好きなこと(≒やりがいのあること)も随分と脆いものであることを再認識する。

やりたいこと、好きなこと、得意なこと、どれもがわからなくなってしまった。けれど、そうであろうとも今までの自分自身を全く否定してしまったようにも思えない。それは、ちょっとした自己分析に基づくやりたいこと・好きなこと・得意なことがたった今の自分の属性を表すレッテルでしかないと感じているからかもしれない。単なるレッテル貼りによって、自分自身をはっきりと捉えることが出来るはずが無い。だからこそ、たった今の自分の属性とは異なる、20年以上生きてきた今であるからこそ自分に問いただせる何かしらのものを見つけ出したい。

いつの間にか、知らず知らずのうちに自らの内に蓄積してきたもの、培ってきたもの。それを自らの行動の傾向、自発性の中に捉えた。ここでいう自発性は単に自ずと始めることのみを指すのでは無い。寧ろ、周囲からの圧力や誘惑に耐え、やり切る根性に近い。報われる保証も無く、別にやらねば死ぬようなことでも無い。それでも取り組むことが出来ていたこと。そこには、かつて何かしらのきっかけにより生まれた意志、そして徐々に圧力が高まる中での継続的な取り組みによって蓄積されてきた根性があるはずである。無ければその行為に纏わりつく理不尽さに耐えることが出来るはずが無い。(例えば、たった一度の試験で合否が決まると知りながらも行える受験勉強。その理不尽さを知りながら、机に向かうことが出来たのであれば、そこには何かしらの培ってきた根性があるはずだと考えた。)

自発性、というより根性として捉えたもの。それは結局、好きなことや得意なこととして既に感じていたことに近いことであるかもしれない(私はそうであった)。しかし「これ」は、ここ1、2年身につけたスキル的なものとは違う。もっと長い時間によって、それこそ中学生ぐらいの頃から着々と形成されてきたものだ。そして、「これ」が得意を、得意が好きを、好きがやりたいへ繋がる可能性を多いに持っていると考え、「これ」をこれまでの歩みの核、そしてこれからの歩みへ引き継ぐものとして大切にすることとした。