原因を考える

結果を得たとき、とりわけ悪い結果得てしまったとき、こうなった原因は何であろうかと考える。時間を遡り、あのときのあれがいけなかったのかなんて思いながら、原因を探していく。そうしてようやく見つけた原因をもとに、次はこのような馬鹿なことはしないよう気をつけるぞと心に留めて、次に行ってしまうことはある。が、これは良くない。

 

良くないと考えるわけは、原因は結果が無ければ生まれないからだ。結果が得られたとき、ようやくその原因が現れるようになる。けれど、まだ結果がわからない今ここに原因があるかと言えば無いだろう。原因になりそうなものはあるだろうが、原因それ自体は無いだろう。

原因になりそうなものを原因にしない為に気をつけるのが先の「気をつけよう」というもので、だから別にそれで構わないではないかと思うかもしれない。けれど、これから起こりえることは時間が離れれば離れるほど無限に膨れ上がる。するとこれから起こりえることの原因となりえそうなもの全てに気をつけなければならない。これでもかという程の気をつけることを書き連ねたリストをチェックしなければならないことになる。

システム開発なんかでは、そうした膨大なチェックリストをもとに起こってはならないことに気をつけながらやりくりしているのかもしれない。起こってはならないことを防ぐためにチェックリストで管理している。だから別に僕たちもそれで良いのではないかと思うかもしれない。けれど、僕たちは本当にシステムと同じで良いのだろうか。チェックリストを眺めながら行動するのが僕たち人間だったのか。

また今ここに原因がないのだから、強引な言い方ではあるが、原因は後からでっち上げたものだとも考えられる。だから再現性がなんだと言ったとしても、原因という概念が思われているほど確固たるものでも無いのだから、とにかく期待されている結果が起こってくれなければその原因が現れてこないのだから、再現性がなんだと気軽には言えるものではないと思う。

 

今ここに原因は無い。結果を予測して原因もどきをつくり上げ、考えることも必要だと思うが、今は今ここにしか無いのだから、その今をきちんと自分の目で見れることが重要だと思う。そうした見方を養うことは、チェックリストをつくったり見たりすることとは違うと思う。

 

「セックスはなぜ楽しいか」への違和感

 毎日のようにセックスをし、今日のセックスはとびきりに面白かったな、一昨日のマグロみたいなセックスとは大違いだな。そんなセックスライフとは程遠い、武者修行みたいな生活を送っている私ではありますが、セックスはやはり魅力的なのです。だからなんだか悔しい気もしましたが、セックスはなぜ楽しいか「Why Is Sex Fun?」(日本語題:人間の性はなぜ奇妙に進化したのか)という本をみかけたとき自然と惹かれてしまいました。セックスはなぜ楽しいのか、その答えとなる理由への興味は勿論のこと、そこに加えて私は、この問いにどのように答えれば良いのか、答えだけでない答えへの近づき方にも興味がわきました。

 ただ読んでみると、正直腹が立ったというか、この本は先の疑問に全く答えているように思えませんでした。答えているのだけれど、全く納得できない。けれど論理が間違っているようにも思えない。この違和感は、結局答えに到達出来ていないだとか、論理展開に誤りがあるとは別もので、そもそもの問いが「セックスはなぜ楽しいか」ではなく、「人間はなぜ他の動物とは異なり、隠れてセックスするようになったのか」といったものへと変わっていたことに依るように思えました。私が初めに抱いた疑問と、本の著者の問いとの質がまるで異なっているように思えたのです。(日本語題は改題されていたのですが、私のような人のために変えたのだろうと今になって思わされます。)

 セックスはなぜ楽しいか、という問いは私と著者とで共通しているだろうにも関わらず、何かが違うばかりに、問いの質が全く異なってしまっている。「私にとってセックスはなぜ楽しいか」と「人間はなぜ他の動物とは異なり、隠れてセックスするようになったのか」。この似ているようで似ていない、だけどやっぱり似ている(笑)、2つの問いの質の違いは何であるのかがとにかく気になりました。

 この質の違いは、一人の人間としての私についての内側と外側からの見方の違いに強く基づいていると考えます。「セックスはなぜ楽しいか」は、楽しいという内面の部分に、セックスだけに限らない、楽しいとはどういうことなのかということにまで意識が及んでいるように思います。他方、「人間はなぜ他の動物とは異なり、隠れてセックスするようになったのか」は性行為に関する、進化の自然淘汰の原理は何であるのかを明かそうという意識が強いように思います。進化論ですから、そこでは個体の生まれながらの外的な違いのみが重要で、生まれてから何を経験して何を考えたかといった内面は一切無視して考えるわけです。そうやって内面を空っぽにして考えるわけですから、その前提にたった答えや答えへの近づき方が、内面に興味があった私には全く響かなかったのではないか、そう考えています。

 

 しかしこれで疑問が全く解消したかというとそうではないのです。というのも「人間はなぜ他の動物とは異なり、隠れてセックスするようになったのか」の答えに当たる自然淘汰の原理原則をもって、「セックスはなぜ楽しいか」を答えることもできてしまう、こうした原理原則があるから楽しいと答えることもできてしまうからです。先も述べましたが、両者はそもそもの前提が違います。しかし前提が違えど、これはこれで一つの答えとして成り立っている。にも関わらず、「こうした原理があるから、楽しい」という答えにどうも馴染めない。なんだか狡い気さえしてくる(笑)。内面を空っぽにするか否かの前提の違いをもとに考えることはまだまだありそうです(その一つが以前書いた 反省と因果関係 - sesame )。

 

 

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

 

 以前も同じような記事を書きましたが、頭の整理の為、そしてこの後書きたい記事の準備として、今一度書いてみました。

「論文の書き方」を読んで

 

論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

 

 

文章を書いているとき、はたしてこれはただ書くことと何か違うのか思うことがある。書を読み考えたことをブログに書いている、そのときもだ。一方、大学の研究室で指導を受けながら数理の論文(予稿集)を書いていたときは、ただ書くこととは違うように思えた。そこでは構造のみならず一字一句に明確な意味を込めようとしていた。しかし今ここには校正してくれる人はおらず、字数の制限さえも無い。そうした場において、如何にして一字一句を大切にし、書くことが出来ようか。

文章を書こうとするとき、普通、何かしらの題材を取り上げる。そしてその題材が実物であれ抽象的なものであれ、それについて思うところを書いていく。すなわち「文章は認識である」(p56)。書いた文章が弱々しく、一字一句が明確な意味を持つことが出来ていないのだとすれば、それは対象への認識が甘いからだ。しかし、ただ自由に題材を取り上げ、自由に書くことの繰り返しでは、なかなか対象の奥深くに突き進むことは出来るようにならない。それは認識を隔てている壁に気付けていない、その壁を壊し方がわからないからだ。そこでその壁を壊すための文章の修行として清水氏は、堅い書物を相手として立て、その書評なりの内容を短文で書くことを薦めている。

相手として立てた書物を読むとき、そこでは自分を殺し読んでみる。文章とは認識である。すると書の文章を辿ることで、自らの目をその著者が認識していた対象へと向けていくことが出来よう。文章を通し、自らを対象の奥深くへと突き進ませることが出来よう。このとき忘れてはならないことは、読むことは著者が言わんとすることを掴むことが目的であり、批判が目的でないことだ。だから初めのうちは自分と思想があまり遠すぎない、自分を押し殺せる著者を選んだほうが良い。

こうした読みを踏まえ、次は自分を生かして文章を書いていく。書物について、どうしても自分が出ざるを得ない字数制限(1000字など)の中で曖昧な表現へ逃げずに書いていく。書の文章により対象を見つめ、書くことで対象を自らの認識として捉え直す。これにより書の著者の思想を自らの思想へ融け込まし、文体の改善を行っていく。思想とは「経験を処理し組織する方法であり、また、処理され組織された経験」(p36)であり、その思想の改善は文体の改善であるそうだ。

以上、読みと書きの相互作用による文章の書き方の向上法を説く、実践的な書であった。

 

 

というわけで書いてみましたが、これを書くだけでも大変でした。修行が必要ですね。また堅い書の場合、一冊について書くほどの力量は到底持ちあわせていないので、断片を拾い書いていくしかないかなと。いや、それも相当に大変だろうけれど。

反省するとはどういうことか

進化論的な説明(「なぜ人間の性はこんなにも奇妙に進化したのか」など)に違和感を覚えて以来、「因果」という言葉にやや敏感になった。統計(データ解析)で耳にする「相関関係は因果関係では無い」というものも、以前はそりゃそうだとぐらいにしか思っていなかった。わざわざそのようなことを主張する意義まで探ろうとはしなかった。

他方で、近々、学会発表をする予定がある。内容は随分と粗末というか新規性・有効性が低いもので、どうしてこうなってしまったのかと頭を抱えながら最後の準備を進めている。どうしてこうなってしまったのかと思い巡らすとき、ああ、これも一つの因果関係の分析のようなものだろうなと気づいた。

しかし、進化論的な説明(人や動物のモデル化する説明?)への違和感は、自分の行動について振り返ることを因果関係の分析の一つと捉え終えてしまうを許しはしなかった。反省をすることを自分の行動における因果関係を捉えることとしてしまうことに違和感を覚えざるを得なかった。(ところで、このような書き方をすると、始めに結論ありきのように思われるかもしれない。全くを否定することは出来ないが、そもそも決して早急に結論を出そうと焦っているわけで無く、また最終的に境目は明らかに出来ていないことは一言断っておきたい。)

 

科学において、こうした原因がこうした結果を招いたのだと、結果から原因を分析することは欠かせない。その結果として、例えば、水(液体)は冷やすと氷(固体)になるといった因果関係が得られている。更には、この自然の因果関係を捉え利用していくこの思考の枠組みにより、科学は進歩し、生活は便利になった。

では人間、とりわけ自分自身においては因果関係はどのような形で現れているか。例えば、こうした原因がこうした結果を招いたのだという分析の一例として「勉強しなかったから試験に落ちた」がある。試験に落ちた原因は、勉強不足である。もし、このような原因分析の結果を聞かされたとすると、おそらく大抵の人は気持ちが冷めるような、原因としての物足りなさを感じる。では、何が物足りないのか。

まず、そもそも「試験に落ちる=勉強不足」ということもあり得る。つまり、単なる結果論(ここでは、原因が結果の言い換えという意味)でしかなく、原因が原因になっていない。とすれば、違和感を感じるのは当然であろう。

ただ、ひょっとすると、本当に勉強不足であったかもしれない。すると先の結果論という指摘は的を射ておらず、他に問題があることとなる。全く勉強しなかったから、試験に落ちた。・・・・あまりにも当たり前である。

しかし、この「あまりにも当たり前」というものが、人間の行動を因果的に捉えてしまうことの問題の現れであるようにも思える。自分自身(人間)の行動を因果的に捉えてしまうと何かどこかで不都合が生じているように思える。

結果(良いにせよ悪いにせよ)から、かつての行動を振り返ること(そして、やり方を変える)。これを反省と呼ぶと思うが、これは科学における「こうした原因がこうした結果を招いたのだと」という因果の分析に似ている。だがしかし、人間において因果の当てはめによる分析はどことなく奇妙さが残してしまうこととなっていた。それはなぜか。

思うにそれは、人間が因果を断ち切れる存在、因果に抗うことが出来る存在だからでは無いか。私達人間は、動物(や物)と異なり、己の欲求のみに支配されず己を律することが出来る。己の欲望のままに、条件反射的に行動するわけではないであろう。(ただ、その律しようとする意識も無意識から生じているようにも思えるので、簡単に動物と人間とを分けることが出来ないのだが、とりあえずここで妥協しておく。)

人間を仮に、因果を断ち切れる存在と考える。もしかすると突拍子もないように思われるかもしれない。しかしこの考えによって、人間の行動を因果的に捉えてしまうことに奇妙さを感じてしまう理由が少し見え始めるものがある。

因果には時間の流れがある。そして、その時間(科学的な時間)はいつまでもまっすぐである。だから、だから、だから、の連続である。ある結果からその原因を振り返る、時間を遡行していくことで、結果を導いた原因はある程度は明らかになる。その一部明らかとなった因果の関係は「だから」の関係であり、その「だから」の繰り返しがまっすぐな時間を作り上げていく。そのまっすぐな時間軸に沿うことで、私達は「予測」をするようになる。

こうした因果に基づいて、人間の行動を因果的に捉えること。それは、行動(行動をしないことも含め)を欲望に支配された条件反射的な関数(モデル)として捉えることであると考えている。要するに単純というものだ。怒られるから勉強するのは単純。世俗的なのも単純であろう。

全く勉強しなかったから、試験に落ちた。だが、勉強することだってできたはずだ。なぜ勉強しなかったのか。したくなかったから。面白くなかったから。あまりに欲望に支配されている!また、するとそもそもなぜ試験を受けたのか。恐らく、受けろと言われたからではないか(そうしないと怒られそう)。言われた通りとは、なんと単純、条件反射的か!

他方で、人間を因果を断ち切れる存在、因果に抗うことが出来る存在と表現した。そして因果の時間はまっすぐな時間であるとも言った。つまり、そのまっすぐな時間の流れを曲げられる存在として人間があるように考えている。そう、人間は潜在的に時間を曲げることができるパワーを持ち得ている。他人が思いもよらなかった方向に事を運ぶことが出来る。だから、そのパワーを一切発揮すること無く、ただただ欲求に従い、まっすぐな時間に沿う存在でしかないという認識と同時に、違和感を感じるのではないか。(また、時間の曲がった先にありそうなもの、それがふと感じ取れると「予感」というのではないか。またなにより、ここら辺でそもそも時間とは何か、という疑問も自然にわき始めるが無理なので保留しておく。)

だがしかし、時間を曲げることは難しく、また大変な力が必要だ。何より単純の難しさは、何が単純であるかが全く自明でないところであり、だからこそ自分の時間がまっすぐになっていることも認知し難いところにある。だから反省は難しく、そして因果の重力に抗い行動することは尚一層に難しい。

 

 

哲学入門以前

哲学入門以前

 

 

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

 

 

 

私もまるで殆ど出来ておらず、情けなく泣きたいときがある。ただそれでも、以前と比較すればいくらか前進したところも有る。そこで、どのような類いの因果の重力に引っ張られ続けていたことに気づいたかを整理する過程で、まだ認識出来ていない重力をどうすれば認識できるようになるか、そうした事柄について考えていきたい。

 

 

読書感想文を書くための本の読み方

9月1日の日曜日。夏休み最終日。中学生の弟に読書感想文の添削を頼まれる。

感想文の賞などの一切を受賞したことの無い私ではあるが、あの頃(自分が中学生や高校生の頃)には見えていなかった、言えなかったことに何があるだろう。今、一冊の本を読み、その一冊の読書感想文を書くとしたら何を大切にして書くだろう。弟の感想文を読みながら、単なる表現の添削に終わらない読書感想文の書き方について、思い返し考えたことを記したい。

 

読書感想文の書き方について調べれば、大抵は次の趣旨の文が見つかる。

  • 読書感想文は、本の内容(あらすじ)紹介文ではありません。自分の体験や考えを書きましょう。
  • 感動(感心)した箇所について、その理由を自らの経験をもとに考え、書きましょう。

最もなことであると思う。ただ、これらは多くの中学生や高校生は誰かから聞き知っていることであり、少なからず心掛けているように思える。寧ろ、そうして書いた自分の読書感想文にどことなく物足りなさを感じているのではないか。しかしその物足りなさを掴みきれず、その場に滞留させられてしまうことに耐え切れず、一先ず書いたものを提出してしまっているのではないか。

読書感想文を書くことの前進を阻んでいるもの。それは、読書感想文の「感想文」でなく「読書」の方にあるように思える。上記の書き方指南は「感想文」の書き方については親切であるが、「読書」の「感想文」としては不親切な部分があるように思う。つまり前者については、自分の体験や考えを書けば良いというものでもないということ。後者については、そもそも本を読んで感動することは容易ではないということ。前進を阻むものはこのように、それぞれの指南にそれぞれの形で立ち現れているように思う。

まず前者について。自分の体験や考えを書くように言われたからといって、本の内容に準じた自らの体験を書けば良いというものでもないと思う。というのも、もしそれだけで済むのなら、別にわざわざ本を読む必要などないからだ。書きたい自分の体験だけを書けば良いではないか。

次に後者について。単純な話、それほど頻繁に感動は訪れない。訪れたらそれで良いのだが、訪れなかった場合は、やむを得ず一般的に褒められる箇所を引用してしまうのではないか。決してこの行為自体を咎めるつもりは無い。ただ、この行為による感想文が結果として綺麗事の寄せ集めになり易いということを指摘したい。というのも、綺麗事は結局、本を読まずとも言えた可能性が高いからだ。はたして感想文に書いたその言葉を言うのに、本を読む必要はあったのか。

というわけで、先の読書感想文の書き方指南は問題が多い。何度も言うが、これら読書感想文の書き方には同意である。しかしこのまま指南通りに感想文を書くと、あまりに地雷を踏みやすい。何より私が、ずーっと踏みっぱなしであったからだ。知らず知らずのうちに。

 

そこで私は、本を一先ず読み終えたときの感想も大事ではあるが、それ以上に読書後に感じる「もやもや」こそを大切にした方が良いように思っている。一冊の本を読んだからこそ現れた「もやもや」。その隠れている正体こそが、感想文の「主題」と成り得るものだと思う。

「主題」は、構成や書き方以上に大切だろう。勿論、構成も書き方も重要ではあるが、それらは型であるので、型の練習をすれば誰でも程よく上達する。しかし「主題」は書き手自身の現れのように思える為、型というものがあるはずが無い。だからこそ「主題」の捻出に自分自身を賭け、世界に対する自分自身の目を少しでも開いていく。そうした読書としての営みを重視した方が良いように思う。すれば、文体も変わっていくように思う。

以下、読書感想文の添削後、「もやもや」について弟宛に送ったメール内容のコピペ。(後日、訂正したい)

 

-------------------------------------------------------


◯◯へ

感想文について。もし難しかったら、△△に聞いて。僕にメールしてもいいけど。

 【良かったところ】

◆感想文になっていたところ。

本の紹介文でなく、自分の体験を中心とした、◯◯の感想文になっていたと思うよ。

◆文章構成を意識しているところ。

ただ書き連ねるのでなく、簡潔な書き出し、二つにまとめられた印象に残った言葉を軸に書けていたと思うよ。

 

【もう少しなところ】(主に直したところ)

次の一つだけ。

◆本一冊に対する◯◯の感想が欠けていたところ。

書き出し部分がまさに本一冊に対する◯◯の感想に対応するのだけれど、その最も大切なところ考えている間に力尽きて、本の帯の文を真似てしまったのは今後の頑張りどころだね。

気づいていると思うけれど、実は、感想文の書き出しにあたる、本一冊への自分自身の感想が最も書くのが難しい。ここは、本を読んだ後、よーく考えないと良い言葉が書けないところなのよ。

 

どのようにしたら書けるか。簡単な方法はないけれど、少し助言。 

本を読んだ後のもやもやを大切にしましょう。そこにこそ自分の一番の感想が隠れている。もし、本を読んだ後にもやもやを感じなければ、読み方が悪いか、本の内容が軽すぎる。

もやもやは、本を読んだことで気づかされたことが、今までの自分の考えと違ったり、合わなかったりすると現れる。そうして現れるもやもやが、もやもやなのは、自分のどんな考えと、本の著者のどんな考えとが合わないのかが明らかでないから。だから、よーく考えて、その合わない二つの考えを見つけ出してあげなければならない。もやもやは自分だけのもやもやなので、もやもやの正体がわかるのは自分しかいないのです。

もやもやの正体を暴くには、本をもう一度読み直したり、黙って考えたり、感想を紙に書いたりして、自分なりのやり方で試行錯誤してみる。そうしてもやもやの正体がわかったら、感想文としては殆どお終い。もやもやの正体を知ったことで、変わった自分の考えを書けばよい。ここは特に考えなくとも、書けるものよ。

 

要するに、もやもやを大切にしてください。ということ。そこに逃げずに向き合えるようになれば、他の修正箇所はあったとしても、ずっと良くなると思うよ。

 

おしまい。 

-------------------------------------------------------

 

いつも以上に雑な文章なので、明日にでも書き直します。

 

読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

 

男女関係を力学的に捉えてみる

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。

つまり、天が人を生み出すに当っては、人はみな同じ権利を持ち、生まれによる身分の上下はなく、万物の霊長たる人としての身体と心を働かせて、この世界のいろいろなものを利用し、衣食住の必要を満たし、自由自在に、また互いに人の邪魔をしないで、それぞれが安楽にこの世をすごしていけるようにしてくれているということだ。(現代語訳 学問のすすめ)

しかし、この世界を見渡してみると、美しい人も醜い人もいる。貧しい人も、金持ちな人もいる。そして女性は、美しい男性、金持ちな男性に惹かれてしまうものである。男性についても、美しい女性、若い女性に惹かれてしまうものである。

そうした男性と女性の間に、互いに惹かれ、惹き合う力が生まれる。それは引力のように、自らが意図せずとも周囲にも自らにも影響を及ぼしてしまう力である。そうした力を我々は魅力と呼んでいる。

その魅力という力を礎に、魅力的な男性と女性を輪の中心としながら、次々と男性と女性とが惹き寄せられ踊る。それはまるで太陽を中心とした、惑星、小惑星の回転運動かのように。その意味でも、魅力的な女性は太陽と言えるのかもしれない。

 

そうした魅力という力が生む結果として、美しく金持ちな男性と美しく若い女性を中心とした関係が生じるわけである。関係とは、恋愛関係であり夫婦関係であり、肉体関係である。魅力の劣った人は、太陽系の中心へと近づけず、中心を眺めるかのように大きな円を描き、また他の人とも容易には関係を築くことができない。

また、関係は距離として表すこともできる。物と物、人と人との関係の強さは、一つの距離の大きさとして表すことができる。親しい関係であれば距離は小さく、そうでなければ距離は大きい。つまり距離とは、ある関係について見たときの人と人との近さと遠さを定めるものである。その意味で距離は、人が至るところに点在する空間への見方、男性ら女性らが存在する世界への見方の一つ、世界観を表しているとは言えないか。

 

ところでインターネット上には、無数のアダルトサイトがある。とりわけ男性であれば、疑いなく誰もが幾度と無くお世話になっており、アダルトサイト無しの生活など考えられないという人も多いだろう。隠すまでもなく、私もその一人である。

そうしたアダルトサイトであるが、近年の女優の美しさには眼を見張るものがある。現実の世界であれば、到底近づくことさえも出来ないであろう女性のあられもない姿を拝めるわけである。

ここに私は、男性と女性との関係として、恋愛関係でも夫婦関係でも肉体関係でもない、新たな関係を目撃している。魅力を根底とした従来の力学系では近づくことさえも出来なかった男性と女性とが、インターネットのアダルトサイトによって近づくことが可能となる。この新たな関係、新たな距離の目撃はまさに、新たな力学系としての世界観を享受したことに他ならない。そう言えやしないか。

 

本当は「エロブラウザのすすめ」というタイトルでその内容を書こうとしていたのだが、思いもよらぬ方向に思考が進み、本題に入る前に力尽きてしまった。

 

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

学問のすすめ 現代語訳 (ちくま新書)

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

 

因果関係は論理的なのか

原因と結果について述べるとき、「ならば」を用いることがある。この「ならば」を普段は論理概念として捉えているが(少なくとも私はそうであった)、少し立ち止まり「ならば」について考えてみると、本当にそれで良いのかと思えるところがある。

 

論理概念としての「ならば」のことを思えば、恐らく大抵は数学を思い浮かべるだろう。「p"ならば"q」というものだ。この論理概念としての「ならば」が持っている性質として、命題が真であれば、その命題の対偶も真であるというものがある。つまり「p"ならば"q」が正しいとき、「qでない"ならば"pでない」も正しいというものである。ここで私は、決してこの論理の妥当性について疑っているのではない。この箇所については正しいと思っている。

他方、因果について。例えば「突風が吹き、スカートがめくれる」を挙げるが、これを先の「p"ならば"q」の形式で表せば、「突風が吹く"ならば"スカートがめくれる」となる。これが常に真になるとは流石に思わないが、とりあえずAさんについては言えたとする。するとこのとき、真となるはずの対偶「スカートがめくれない"ならば"突風は吹かない」はどうか。「スカートがめくれないと、突風が吹かない」とは、明らかに変である。

 

因果の「ならば」を論理概念として扱うと、何がこじれてしまうのか。それは因果の「ならば」が持つ、前後関係であろう。因果関係であるのだから、当然のことを言っているだけに思えるかもしれない。ただ私にとってここが、因果の「ならば」が論理概念では無いと考える一番の理由にあたる。因果の「ならば」は「論理」ではなく「時間」なのであろう。つまり、因果関係はもともと論理的では無い、と言えやしないか。

また、するとそもそも「原因」という概念自体が無く、世の中には結果しか無いと考えたほうが良いように思える。というのも、時間の流れの中で認識した「現象」を恣意的に、原因や結果と呼んでいるに過ぎないのだから。そして、私達が原因について考察するとき、それは論理的に考えているのではなく、時間が生んだストーリーを思い描いているだけなのだろう。

 

勿論、原因という概念を用いることは実証を要する科学(工学や社会科学など)には必要である。

 

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

ハイデガ-入門 (講談社選書メチエ)

「時間」を哲学する (講談社現代新書)

「時間」を哲学する (講談社現代新書)

頭がよくなる論理パズル

頭がよくなる論理パズル