進化論的説明への違和感

利己的な遺伝子」「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」がどうも面白くない。なぜ面白いと思えなかったのか?説明の面白さはどうであれば訪れたのだろうか?

 

両本の論理展開が誤っているとは思わない。少数の法則によって様々な現象を説明している本の内容には、著者の力量の大きさを確かに感じる。しかし何かが引っかかる。間違っているとは別の、説明に対してどこか違和感を感じる。

一つは、人を機能的に扱っているからだろう。「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」の著者、ジャレド・ダイアモンド氏はセックスが楽しい原因について進化論的考察を行っている。当初僕はこの本に対して、セックスの楽しさについて言及する以上、自らの意識のあり方をよりよく説明してくれることを求めていた。しかし、「セックスはなぜ楽しいか」は人の意識を空にして説明している。つまり、単なる物体の動きとして説明を試みている。身勝手ではあるが、ここへの落胆は大きかった。"利己"的な遺伝子についても同様である。

 

ただ、機能的な説明がいつも面白くないわけではない。科学はまさに機能的な説明をしている。例えば、惑星の動き。惑星の動きはなぜ楕円なのかという疑問に対し、物理学はケプラーの法則に従っているからと答える。そして、そのケプラーの法則万有引力の法則に従っている。ここで少なくとも僕は、なぜ万有引力の法則があるのかをこれ以上聞き出そうとはしない。気にならないからでは無い。寧ろ、その問いには限界があると思っているからだ。結局、奇跡でしかないと思っている。

「AならばBが起こる」という因果の説明がある。それに対し、「なぜAならばBが起こるのか」と問うとする。それに対する解答は再び「CならばDが起こるから」という形式を取るはずである。つまり説明には終わりが無い。しかし終わりが無いにも関わらず、僕らはある説明を聞いてどこかで納得することがある。なぜその法則が起こるのかを更に質問しようとは思わないときがある。その境界はいったいどこにあるのか。

それは、因果を説明する法則によって、自らの様々な経験が説明されたと思えたか否かによるのではないか。類似経験であると認識出来ていなかったことを法則により類似経験であることが明らかとなったか否か。類似経験と思えていなかった経験を類似とする「繋がり」が得られたか否か。例えば万有引力の説明に面白さを覚えることが出来るのは、万有引力がよく知らない惑星の動きだけでなく、地上での身近な物体の落下についても説明しているからだろう。

 「利己的な遺伝子」「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」で書かれている内容がどうも面白くなかった理由。それは、現象を説明する法則が自らの経験を結びつけなかったからだろう。僕は無意識のうちにではあるが、法則が自らの経験(体験・知識)を繫げてくれることを求めていたのだ。

 

説明を面白く感じるには、法則により自らの経験が繫げられたかが重要であると述べた。では、両本を読んでなぜ自らの経験は繋がらなかったのだろうか。単に経験が無かったことによるのか、それとも他に理由があるのか。説明での納得で求められる経験にはいったいどのような経験が求められているのか。

説明は少なくとも、一般法則と個別事実から説明したい現象を導くという形式を取っている。それ故、説明には、被説明現象・説明を行う一般法則・個別事実の3つは欠かせないだろう。そして説明される現象と個別事実については経験しておく必要はあるだろう。

そう考えるに、両本での説明が自らの経験に結びつかなかったのは、いずれか、または双方の経験が欠けていたからと考えられる。進化論的説明は長い時間とともに得られた今の結果を説明しようとする試みである。従って、説明される現象の経験に困る事は少ないと考えてよいだろう。一方で、かつての個別事実を直接に体験することが容易でない以上、その個別事実を予め経験していることは稀であるだろう。

つまるところ、かつての個別事実への経験が欠けた状態で一般法則によって説明を読んだが為に腑に落ちなかったのだろう。だから進化論的説明を最後まで楽しめなかった。そしてこれは、個別事実への経験が困難な状態で説明を試みる、結果論とも言える進化論的説明の抱える問題点のようにも思える。

 

正直、違和感は消えていない。科学について、科学の抱える問題について考察する必要があると感じる。

 

 

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

文庫 人間の性はなぜ奇妙に進化したのか (草思社文庫)

科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

科学哲学 (〈1冊でわかる〉シリーズ)

絵心がある人とない人との違い

絵が上手い人、下手な人がいる。それは勿論、今までどれだけの絵を描いてきたか、トレーニングを積んできたかに依るところは大きい。けれど、また確かに絵を描く素質、絵心の度合いが個々によって異なるとも感じる。

絵心の有る無しを分かつものを才能の一言で終わらせることは出来る。それでも、目の前にあるモノの形や質感や大きさを出来るだけ適確に捉えようと凝視することは、普段は意識には上らない、埋もれてしまっている何かを引っ張りだすようにも感じる。その埋もれている何か、つまり絵心の有る無しを単なる才能という一言で終わらせないものの正体は気になっていた。

 

「内蔵とこころ」を読んで、「絵を描くこと」が幼児の頃に欠かさず行なっていた「舐める」と繋がっているように思わされた。言葉も話せない、視覚による世界の認識もままならない頃。目の前の世界にいったいどのようなモノがあるかがわからない頃。その頃に行った、舌と口を使いモノを舐めるということは紛れも無く、今、手元にあるモノの形や質感や大きさを捉えるということだろう。

モノの形や質感や大きさを捉えようと凝視することを"舐め回すように見る"と表現することがある。絵心がない、それはひょっとすると幼児の頃に「舐める」ことをしなかった(許されなかった)ことによるのかもしれない。舌が、かつての記憶が呼び起こす。

 

内臓とこころ (河出文庫)

内臓とこころ (河出文庫)

 

 

「やりたいことがわからない」について

自分が本当にやりたいことは何なのか?本当にやりたいことがわからないままで、どのように仕事を選べば良いのか?

 

日常的にやりたいことはある。けれど、いざ何が本当にやりたいのかを問いだすと途端に答えられなくなってしまう。人生を通じて何をやり遂げたいのか。それは次第に生きている意味へ。自分の為だけで無い、誰かの為になる行為について思い始めれば、善いことへ。

このような様子で、就職活動中には先の問いに随分と悩まされた。そもそも直感的にではあるが、今の自分の内に本当にやりたいことがあるとは思えない。「本当にやりたいことが今わからないのなら、自己分析しようが結局わからないままだよ」とも聞く。ならば無いなら無いで良しとして、また多くの周りも同じようなものだろうと自分に言い聞かせ、周囲の流れに身を任せようかとも思った。

就活系の本に書いてあるような問いを使って自己分析をしてみたことがある。ただそのとき、書かれている問いの「ここに書く君の答えが君のやりたいことだ」とでも言いたげな様子がどうも気に食わなかった。渋々と欄を埋めてみるも、そこに自分が書きだす自分がとても自分であるようにはやはり思えない。洗脳的なようにさえ感じられた。

企業のことを調べ、先輩社員の話を聞き、興味が持てるその企業らしい仕事を見つけ出す。そしてその仕事に興味を持てた理由、過去の体験を自分に問う。そうすれば、この悩みは気にかけ無くとも良いかもしれない。けれど、20年以上生きてきた今だからこそ向き合える自分もいるだろう。就職活動の為でなく、少しでも自分で自分を納得させたい。容易に「自分は◯◯だ」などと自分にレッテルを貼りたくは無い。そう思い、もう少し自分に向き合うことにした。

 (以下には、自分のやりたいこと・好きなこと・得意なことがわからなくなっていった私が一体何をこれまでの自分の核として就職活動を行ったか、及びその核に至までの思考の経緯を記した。)

 

とにかく、やりたいことが社会貢献という結論は浅はかだと感じていた。確かに今の自分は自分一人の力で形成されたものでなく、周囲の助けがあってこそのもの。そしてこのことに感謝し、自らも誰かの為、人の為になることが出来ればとも思う。勿論、感謝をされれば嬉しい。ただ働くという行為自体が社会貢献である以上、それが例え後付けの理由であろうとも、自分の行為を社会貢献としていくらでも捉えることは可能である。だからこそ、やりたいことを社会貢献の一言で終わらせたくはなかった。

ならばどのようにしてやりたいことを自分の内から探せば良いのか。今、自分が自分の内からやりたいことを探しだそうとしている以上、それが一体自分にとってどのような位置付けにある行為であるかを捉えたい。というのも、やりたいことはやりたいこと、では思考が先へ進まないからだ。この、やりたいことという言葉は一体どのような意図で用いていたか。

やりたいこととは、好きなこと(≒やりがいのあること)の少し先にあることか。好きだからやりたいのであり、やりたいから好きなのではない。また、好きなことは現在の自分を想定している行為で、やりたいことはほんの少し先の自分を想定した行為のようにも思える。それ故に、今の自分が好きなこと、それが自分のやりたいことを生み出す土台と言えないか。

好きなことはある。ただ、それがどうしようもなく好きなのことであるか、そう自分に問うと根拠それ自体が薄弱(捉えきれない)故に、不安は残る。また普段、その行為が好きであると意識に上がっていなかったようなことを簡単な自己分析を通して、好きなことと安易に結論付けてしまって良いのか。そう結論付けるにしても、その前に少なくとも、好きなことを好きでいる為には何が欠かせないのかは認識しておきたい。そう易々と好きで無くなってしまうわけにもいかないからだ。またそして、好きなことを生み得るものがあるとすればそれはどのようなものか。

好きなことを好きでいる為には、その行為が今の自分に不利益を超える利益(楽しみ・喜び含め)をもたらし得る、そう自ずと期待出来ることが欠かせないはずだ。そして、行為の見返りの可能性が依る処は、常にでは無いにせよ、周囲を比較したときの自分の優位性が重要な要素であろう。周囲と比較して明らかに能力面で劣っていることをし、しかもそこに優位性獲得の可能性を期待出来ない無い場合、その行為を為せるようには思えない。

そうして、好きなことを好きでいさせる為に重要な要素、得意なことに思考の対象が移る。けれど結局、この得意なことは周囲との相対的位置によってしか決まらない。働き始めれば当然、周囲は今までとは違う、突如として厳しい環境へと変わる。このことを考えるに、今の得意なことがこれからも得意なことであり続けるようには思えない。寧ろ一旦埋もれてしまうものだろう。そしてまた同様に、今の得意なことに支えられている好きなこと(≒やりがいのあること)も随分と脆いものであることを再認識する。

やりたいこと、好きなこと、得意なこと、どれもがわからなくなってしまった。けれど、そうであろうとも今までの自分自身を全く否定してしまったようにも思えない。それは、ちょっとした自己分析に基づくやりたいこと・好きなこと・得意なことがたった今の自分の属性を表すレッテルでしかないと感じているからかもしれない。単なるレッテル貼りによって、自分自身をはっきりと捉えることが出来るはずが無い。だからこそ、たった今の自分の属性とは異なる、20年以上生きてきた今であるからこそ自分に問いただせる何かしらのものを見つけ出したい。

いつの間にか、知らず知らずのうちに自らの内に蓄積してきたもの、培ってきたもの。それを自らの行動の傾向、自発性の中に捉えた。ここでいう自発性は単に自ずと始めることのみを指すのでは無い。寧ろ、周囲からの圧力や誘惑に耐え、やり切る根性に近い。報われる保証も無く、別にやらねば死ぬようなことでも無い。それでも取り組むことが出来ていたこと。そこには、かつて何かしらのきっかけにより生まれた意志、そして徐々に圧力が高まる中での継続的な取り組みによって蓄積されてきた根性があるはずである。無ければその行為に纏わりつく理不尽さに耐えることが出来るはずが無い。(例えば、たった一度の試験で合否が決まると知りながらも行える受験勉強。その理不尽さを知りながら、机に向かうことが出来たのであれば、そこには何かしらの培ってきた根性があるはずだと考えた。)

自発性、というより根性として捉えたもの。それは結局、好きなことや得意なこととして既に感じていたことに近いことであるかもしれない(私はそうであった)。しかし「これ」は、ここ1、2年身につけたスキル的なものとは違う。もっと長い時間によって、それこそ中学生ぐらいの頃から着々と形成されてきたものだ。そして、「これ」が得意を、得意が好きを、好きがやりたいへ繋がる可能性を多いに持っていると考え、「これ」をこれまでの歩みの核、そしてこれからの歩みへ引き継ぐものとして大切にすることとした。

ブログ再始動。

小学校の給食の時間。配膳を待つ間、教室角の天井から吊り下がる小さなテレビで先生が借りてきたビデオをみていたのを覚えている。

宮崎駿が初めて監督を担当した「未来少年コナン」、強烈な光と共に皮膚が溶け、眼球が飛び出し、肉が焦げ人が消えて逝く「はだしのゲン」。後者の作品が自分の中に残したものは確かにあるけれど、明らかに食事中に見るものでは無かった。

 そして、あともう一つ記憶に残っている作品がある。「アリババと40人の盗賊」。英語版。もう一切何を話しているのかが分からなかった。呪文を唱える物語は、私にとっても本当に終始呪文な物語であった。ただ幸いにも絵本で読んだことがあった為、映像を見ながら記憶を頼りに脳内補完することで展開を追うことはなんとか出来ていた。そして、場面はアリババが大きな岩の前で立つシーンへ。

緊張した面持ちでアリババは唱える。

 

「Open sesameeeee!!!」

 

開けゴマ。英語のリスニングに初めて成功したときでもある。というわけで、ブログの始まり。